『しぜんかんきょう』創刊号

1970年代、環境を破壊する開発に「NO」の意思表示を示し、
シンボル的存在となった「稲村アスレチック反対Tシャツ」

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ハワイで作られたTシャツ、なにか1930年代のベン・シャーン的な労働運動の香りのするデザインだ。

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今回の134号線の海岸の侵食問題以前、1960年代から、大手開発業者などのデベロッパーが稲村ケ崎周辺の開発に取り組んできた。とくに、いちばん野望を持っていたのだろうと思う、ある大手開発業者が七里ヶ浜の分譲地を造成したのは、わたしが小学校4年生のときだった。いまは海岸が見下ろせる高台にプリンスホテルがあるが、あの一帯は谷が入り組んでいて、いわゆる谷戸(丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形)と言われる場所で、広大な谷戸を形成していた(いまも鎌倉市の内陸側にいくつかの有名な谷戸があるが、それらは現在鎌倉市が公園として整備し管理している)。当時、この谷戸には美しい田んぼが一帯に広がっていて、メダカやカエルなどのさまざまな生物が棲んでいた。子どものころにわたしも友だちとハイキングに行っていた場所だけど、その緑豊かな七里ヶ浜の丘陵地はあっという間にブルドーザーが入り、山が削られ谷は埋められ平らになった。いまなら絶対に開発はできないだろうけど、その当時は郊外にどんどん住宅地を造るという風潮が世の中にあって、それで七里ヶ浜の住宅地は造成されたのだろう。そのとき、噂になった話だけど、江ノ島から稲村ケ崎のあいだの海岸線を埋め立てて、レジャーランドを造るという計画があったという。小動(こゆるぎ)岬から稲村ケ崎のあいだの海岸線は自然豊かな磯が続く浅瀬だから、比較的容易に埋め立てが可能だ。そのあいだの海を埋めたててレジャーランドを造成するつもりだったらしい。その先駆けとして、七里ヶ浜の江ノ電沿いに木造の2階建てのプリンスホテル(現在は七里ヶ浜高校)があり、その並びの山側に100メートルの海水プールがあった。この分譲地を造成したときにでる大量の土砂を使って海を埋め立てて、レジャーランドを造るという壮大な計画だったという。いまもある七里ヶ浜の駐車場はその一環として埋め立てて造ったらしいが、それ以上の工事は反対にあったのだろう、それ以上は埋め立てられなかった。さすがに海をすべて埋め立ててしまうという乱暴な開発はできなかった。

 それで、いまでもそうだと思うけど、夢を諦められない開発業者が山のようにいて、いまは稲村ケ崎の公園になっている土地は、もともとは個人が持っていた別荘で(古い写真を見るとわらぶき屋根の小屋が写っている)、その土地は相続にともない鎌倉市に寄付されたが、ある開発業者がそこの開発をしようと画策したが、住民の反対に遭い諦めた。それと同時期に、別の開発業者が稲村ケ崎の切り通しの上の土地をアスレチック場として開発しようとした。そもそも、これらの土地は鎌倉市の歴史的保存地域で開発ができないようになっていたが、それでも業者はあきらめず、合法的な手段を考えて、その計画が持ち上がった。鎌倉の緑を守るという意味合いも含めて、稲村ケ崎の自治会の人たちが「この稲村ケ崎の景色を残さなければいけない」と、反対運動をはじめた。稲村ケ崎の住民たちが先頭に立って、その土地の入り口で実力行使をして工事車両を止めたりして、反対運動をつづけた。開発しようとした土地は風致地区で、構築物は造る必要がないアスレチック場という名目なら開発が可能で、その後、開発業者は数年かけて地目変更して宅地開発してしまう計画だったのだろう。

 その反対運動のシンボルとして作ったのがこの「稲村アスレチック反対Tシャツ」。当時、ハワイの「スーパースクリーン」というシルクスクリーンのプリント会社に発注して、このTャツを作ってもらった。ナショナル・トラストになった八幡さまの裏山の例を見てみると、「自然を守る」というスローガンだったが、お金を集めてその裏山を買い取ったおかげで自然が守られたのであって、裏山を買い取れなかったら、たぶん宅地になっていた。でも、稲村ケ崎の反対運動は、金があったわけじゃないので、ただ単に合法的に反対運動をしただけだった。たとえば、県に働きかけたり、議員の人たちに陳情に行ったり、住民たちが工事車両の通行を邪魔するといった実力行使をしたりして、地元住民のパワーで開発を断念させたのだった。あそこまで地元の住民が反対運動をしたという例も珍しいのではないだろうか。開発業者が開発を諦めたその土地はいまでもそのまま残っている。とはいえ、鎌倉の海沿いにあった松林がいまではまったく残っていないというのは、開発業者たちがいかに暗躍したのかということを如実に物語っている。

語り:川南 正